「グスコーブドリの伝記」感想
恥ずかしながら、宮沢賢治といえば国語の教科書に掲載されていた「注文の多い料理店」を読んだぐらいで、その人物像と作品についてほとんど無知であるが、ツイッターや他の方の感想、またはウェブ情報によると、どうやら同名作を軸にしつつ、同氏作品の様々な要素を取り入れた内容であるとの事。
おそらく同氏のファン、あるいは長年その作品に慣れ親しんだ人には、なるほどと頷ける点も多々あったと察するが、そうではない人(小生も含め)が、果たしてこの内容について来れたのか、大いに疑問が残る出来。
オール猫キャストによる、現実世界と幻想世界が目まぐるしく入れ替わる、独特の世界観は確かに美しいのだが、その分、製作者側の意図する部分が見えにくく、すっきりしないラストとも相俟って、物語として中途半端な印象を受ける。
また、それに伴って、結局アレは何だったのか、アイツは何しに出てきたのかという要素も非常に多く、且つ、ほとんど解明されないままで、その後何事もなかったかのようにエンドロールが流れ始めた時には「えっ、ここで終わりなんですか?」と軽い放心を味わってしまった。
一つ一つを丁寧に汲み取り、考察していけば、それなりに見えてくるものもあるだろうし、そういう楽しみ方は否定しない。かく言う小生も、分析と考察は大好きなクチだ(でなければ、こんな面倒くさいヘボブログなど書いていない)。
しかし一般の、いわゆる年に数度、あるいは何年かに一度しか映画館に訪れない人が、そこまでの労力を費やしてまで、本作を深く楽しもうとするか、甚だ疑わしいところ。せめてもう少し、監督か脚本家なりの「俺はこう思うよ」という咀嚼・解釈があれば、評価もガラリも変わったように思う。
実に稚拙な邪推ではあるが、主人公ブドリを「雨ニモマケズ」精神の体現として描きたかったのだと仮定して、あの描き方でそれがユーザーへと正確に伝えられたのかも、正直クエスチョン。
与えられたどんな仕事もすすんで勤め、いかなる不条理にも決して屈せず、ただ世のため人のためと私欲を捨てて臨む、本来もっとも尊ばれる人物像としてのブドリの姿が(実際、この詩のモデルとなったとされる斉藤宗次郎は、そういう人物だったそうな。詳しくはコチラ)、資本主義と半竹なリベラリズムに毒された現代人には、ただ流されるままいいように使われる、主体性のない人物に見えてしまう場合も少なくあるまい。
その意味でも、彼が体験・経験してきた事の集大成といえる最後の決断を、ただの自己犠牲賛美とは取られないような、何かもう一工夫欲しかったところ。
紆余曲折あったとされる本作完成までの経緯については、あえて触れないでおく。ブドリの声を務めた山田…もとい小栗旬くんの芝居も、決して悪くなかった。
作画や演出の面でも、まったくよい部分がなかったわけではなく、正直話にならん、観る価値ナシ!!と一刀両断に斬り捨てるほど酷い内容でもない。
が、しかし、その知名度とは反比例し、ごく限られたコミュニティ内でしか真価を語り合えないとなると、誤解を恐れずに厳しい言い方をすれば、「ヲタク向けアニメ」と何ら違いはなく、エンターティメント作品として昇華しきれていないと評さざるを得ない。
かつて高畑勲氏が、1994年に同作のアニメ化が決定した際、「アニメ化してはいけない作品をアニメ化してしまった」とコメントしたそうだが、他意がなければ、おそらくそれだけ扱いの難しい作品なのだろうと察する。
とはいえ、こうした作品をきっかけに、古典文学に興味を覚える人が現れるのはとてもいい事なので、できれば今後とも、ドンドン過去の名作をアニメ化、映像化していただきたい。
欲を言えば、星新一氏のショートショートを、オムニバス形式で。各話ごとに出演者はもちろん、監督、脚本が入れ替わるなんてのも面白いかも。
…それはさておき、小生の評価は…、
☆☆☆★★
星3つ!